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2006年7月

2006年7月31日 (月)

日本でMANGA家になるための妙案

質問

私の夢は、人気MANGA家になることです。しかし、米国人が日本でMANGA家になるのは困難であると以前AskJohnにはありました。それで、MANGA家になる別の方法を探すことにしました。日本ではなく米国に残ってビデオゲームのデザイナーになって国際的人気を獲得するのです。何年かすれば、きっと自分の会社を持つようになっています。十分に人気を得たところで日本に行って挑戦、と。米国人が日本でMANGA家になるにはこの手があると思うのですが、どうでしょうか。それとももっと良い手がありますか。

回答

私の基本的見解をざっと述べましょう。ひとの夢や理想についてあれこれ言うつもりはありません。外国人でも日本でMANGA家やANIMEの監督やスタッフになるにはどうしたらよいのか、と多くの人から尋ねられます。こういう夢を抱く人たちについては、自分の本当にやりたい事をどこまで把握しているのだろうか、と思います。

MANGAの本場・日本で成功し認められたいと願う気持ちは分かりますが、仲間から一目置かれたいという理由で自分の道を決めるのは何かおかしいと思います。職業の選択は結局個人的なことです。周りの人間ではなく、当人にとって納得のいく道を職業として選ぶべきです。要するにクリエイターを志すのであれば、何よりその道で食べていけるようになることを目指すものであり、日本でMANGAやANIMEのクリエイターになるにはどうしたらいいのかを考えるのは、それからで十分です。

内なる思いを外に向かって表現することをアートと呼びます。商業アートでさえ、結局は作者その人の嗜好やスタイルに依るものです。日本で名声や人気を得られれば、それは当人にとって大いに結構なことなのでしょうが、アーティストにとって何より大事なのは、作品制作を通して自分自身をありのまま表現することです。

日本で生まれ育ったのでもない人間にジャパニーズMANGAは決して描けません。同じ理屈で、日本のアーティストにアメリカン・アートは決して作れません。しかし、外国アートに影響されること自体には何も問題はありません。ジャパニーズ・アートとほとんど見分けがつかない、時には優れてさえいるものが米国人には作れないのかというと、無論そんなことはないわけです。

MANGA風のコミックスを描くつもりでしたら、それもまた道です。MANGA風のものに挑戦するのと、日本に引っ越したり働いたりすることは、本来別のことです。MANGAを描きたいという人は、作品作りに専念すべきです。日本で仕事することにこだわりすぎると、かえって創造力が損なわれる上に、経験を積む機会をなくしてしまうことも考えられます。「MANGA家」にこだわるあまり、自己表現というアートの基本を忘れてしまっては、本末転倒というものです。

同じMANGA家志望でも、日本語が話せて、しかも日本に暮らしている人たちのほうがずっと有利ですし、数もたくさんいます。となると、日本の出版社としては、トラブル覚悟で外国人と組むよりは、国内より才能を引っ張ってきたほうが手間がかからないわけです。

ビデオゲーム・デザイナーになって、それを足掛かりに日本でのMANGA家デビューというのは悪くない思いつきです。実際、どういう修行や経験であれ、そうやって積み重ねてきたものがあったほうが、日本の出版社相手には有利です。名声はあるに越したことはありません。仕事探しで頭を下げて回っている三流人より、才能あるアーティストとして既に認められている人のほうが未来は明るいというものです。

すでに名が知られていて実力が認められているアーティストのほうに尻尾を振る傾向が日本の出版社にはあります。MANGA家になりたいという夢は立派ですが、おそらくそううまくはいかないと思います。有能で経験豊富なプロであると分かれば、そこに市場価値を認めて出版社も積極的になってくれるのでしょうが、MANGA家になりたいというのであれば、その前にプロ・アーティストになるべきです。

自費出版、大学や専門学校での履修、履歴書を作って自分を売り込んだり、自主制作映画でアピールしたり、コミックス・映画・ビデオゲーム・TV・舞台劇その他なんでもよいのですが、そこでプロ脚本家や画家として技術を学び、経験を積むのが先決です。日本のMANGA業界に売り込むのであれば、企画の持ち込みをするよりは、名声を得て日本の出版社の方より接触してくるのを待ったほうが早いはずです。

とんでもない目標を目指すアマチュアよりは、今できることをこなしていくプロになったほうが、日本のMANGA業界に入るという夢は叶いやすいのでは、と思います。

Are There Alternatives Methods to Becoming a Manga Artist?

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2006年7月28日 (金)

ANIMEを語るときに日本のファン用語を使うのはいけないことですか

Ask John 番外編

匿名の書き込みで、以下のようなものがあって、自分としては反駁せずにはいられなくなりました。「英語字幕でEROGEとかANISONといった単語が使われるはどうかと思います。WAPANESE(ジャパ専)ぶりが目に余る」

どこまで本気で言っているのか分かりませんが、日本語を好んで取り入れるのは、わが国のANIMEファンの間ではごく普通な感覚です。こういう発言をする人は心が狭いだけでなく、思慮に欠ける上に、きっと非合理的な排他主義に陥っているのです。

ジャパニーズ・アニメーションはわが国で今以上には理解されず、受け入れて貰えないのは、ひとつはこういった態度の人が減らないからです。ANIMEファンでさえANIMEのANIMEたる部分を合理的に受け入れ、目を向けようとしないようでは、ジャパニーズ・アニメーションがもっと広い層に支持されるようになる日は遠のくばかりです。

日本語を間違ったまま使うANIMEファンは、その熱意は買うけれど、どこか無分別であるとは思います。でも、日本の用語を積極的に使うのはけしからんという態度は非合理ですし、ANIMEをもっと普及させることの妨げになるという点では、用語を誤って使う場合と同じかそれ以上に困りものです。ここで引用したような、侮辱の混じった大雑把な言説はついつい正しいものに思えてしまうことがありますが、ANIMEファンの基本姿勢と相反するものです。私自身の立場をはっきりさせるために、上の言説を解体(デコンストラクト)して分析してみたいと思います。

「EROGE」というのは、エロチック・ゲームを縮めて呼んだものです。ANIME絵を使ったポルノPCゲームを日本ではこう呼びます。「ANISON」は、アニメ・ソングの略称です。ANIMEの主題歌のことを指します。「WAPANESE」はwannabe Japanese(ニホンジンになりたい)が縮まってできた米語です。ジャパニーズ・カルチャーを盲目的に崇め奉るひとをからかう時に使われます。先に引いた言説の主は、きっと日本のANIME用語を好んで使いたがるファンたちは軽薄かつ無知であると言いたいのでしょう。英語ではなく日本語のままファン用語を使うファンたちは自分に甘えすぎているのだ、と。

外国語を翻訳する際には、徹底して平易な文体にして、原文の意味や意図を正確に伝えるよう努力するものであると私も思います。外国の用語をあえて訳さないことで外国風の感じを出すのは、翻訳というものの本質に反するものです。しかしながら、置き換えようにも該当する単語が見当たらいことや、そのまま訳さずにおいたほうが効果的なことが翻訳にはあると私は思います。

特定の用語については音訳(例:「格好良い」をcool とは訳さず、ローマ字表記でkakkoiiにする - 訳者)にとどめたほうが賢明なこともあります。視聴者には新たにものを学ぶ機会にもなるわけです。例えば、「ばか」とか「あほ」という日本語があって、阿呆とか愚か者と訳せます。こういう場合は、英語に訳さずにおいたほうが良いとするのはかえって不合理なのですが、「EROGE」や「ANISON」となると、これに相応しい訳語はどの言語にもないようです。

英語で「CAR」という名詞を使うとき、普通はバスやトラックやオートバイやバンのことは含めませんが、これと同じで、PCゲームや歌のなかでも特定のジャンルに属するものを指し示すのに便利なのが「EROGE」と「ANISON」といった名詞なのです。字面通りに訳すと、かえって不明瞭になってしまうことがあります。くどくて大仰なものになってしまうことは避けられません。「EROGE」と「ANISON」が他のANIME用語、例えばANIME、MANGA、COSPLAYそれにDOUJINSHI等と決定的に違う点は、他のものに比べて最初の二つはANIMEファンの間でも頻繁には使われない用語であること。これぐらいです。

「ANIME」と言うとき、それはジャパニーズ・アニメーション以外のアニメーションのことは指しません。英語圏の人間が「ANIME」を語る場合、言われるまでもなく『フリンストーン』や『バンビ』のことは外されるものです。アニメーションならぬジャパニーズ・アニメーションのことをさっと指すには「ANIME」は便利です。

ミリアム・ウェブスター英語辞典によると、「MANGA」は日本製コミックスのことと定義されています。『スーパーマン』や『ランゼロックス』(訳注1)、ロバート・R・クランブの作品(訳注2)、その他のあらゆる非・日本製コミックスが「MANGA」からは外れます。MANGAという総称は使いやすく、効率的です。コミックスと呼ぶよりも簡潔ですし、ジャパニーズ・コミックスと呼ぶより実用的なのです。

同じように、「EROGE」は日本製Hゲームを指す用語です。エロチック・ゲームと直訳しては、原語より定義が曖昧になってしまいます。例えば『Leisure Suit Larry』はエロチック・ゲームだとしても、EROGEとは呼べません。「ジャパニーズ・エロチック・ゲーム」と言うより、EROGEで済ませたほうが短いし便利です。

デュラン・デュランの「グラビアの美少女」や、バックストリート・ボーイズの「ドゥラウニング~なんでこんなに好きなんだろう」、浜崎あゆみの「no more words」は、ANIMEの主題歌として使われたことで有名ですが(訳注3)、それでもANISONとは呼べません。ANISONと言えば、もともとANIME主題歌用に作曲された歌のことであり、大げささが前に出た唱歌か、甘ったるいMOEソングのことを普通指します。「ANISON」を字面どおりアニメ・ソングと訳しては正確ではないし、ファンの間で話が通じなくなってしまいます。

「EROGE」、「GALGE」(ギャルゲー)、「GUNPLA」(ガンプラ)それに「ANISON」は、いずれも「ANIME」や「MANGA」に肩を並べる特殊な固有名詞としてファンの間で定着しています。これらの単語を使うことを軽薄とか不適切と言い立てる人には正面から反駁したいと思います。ひとのものの見方にあれこれ口を出すつもりはありません。ジャパニーズ・カルチャーにはまっている人間のことを批判するのは、各人の自由です。自分の趣味を誇示するようなANIMEファンの是非を語るのも勝手です。

しかし、単に日本語だからという理由で日本のANIME用語使用を叩くのは、独善主義かつ知性に欠ける行為です。私が思うに、ANIMEファンになると、そこに一定の傾向がでてきます。ジャパニーズ・カルチャーについて敏感になり、何でも知りたくなるのです。ジャパニーズ・カルチャーというものに背を向けるような真似は、ANIMEファンにはおよそ理解できないことです。

既に述べたように、日本語を恣意的に使うとコミュニケーション障害につながることはあります。しかし、日本語や日本のANIME用語は徹底して避けるべきだというのも、コミュニケーション障害の元になります。外国語からの借用だったとしても、ファン用語というものはコミュニケーションを促進するためにあるものです。

こうしたファン用語を否定するのは非生産的というものです。借用したANIME用語であっても、合理的かつ効果的に使えば、簡潔で明確な表現が可能になります。ひとつの概念を伝えるための、知的で応用のきくコミュニケーション手法であり、肯定的・好意的にみるべきものです。誤解や見下しなどもってのほかです。

日本語をむやみやたらと英語に混ぜ込むことに賛成するわけではないのですが、ファンの間での意思疎通がスムーズで明確なものになるように、いくつかのファン用語については日本語からの流用は許されるし、肯定するべきであると思います。

Is It Wrong To Use Japanese Terms When Discussing Anime?

訳注1 ステファノ・タンブリーニとタニーニョ・リベラトーレ(ともにイタリア人)コンビによる’70年代作品。パンクなモンスター・ランゼロックスと、風変わりな美女ルブナが繰り広げるダークな近未来バイオレンス

訳注2 見ていただいたほうが早い 

訳注3 それぞれ『スピードグラファー』、『花田少年史』、『犬夜叉』で使われた

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2006年7月27日 (木)

『トップをねらえ2!』は発売されないのですか

質問

マンガ・エンターテイメント社が今年1月に手放した『トップをねらえ!』の北米発売権を(訳注1)、バンダイが最近になって再獲得しましたが、これの続編である『トップをねらえ2!』が、日本での完結後にわが国でも発売される可能性はありますか。それから、ファンの間で期待や評判は高いのでしょうか。

回答

正確に言うと、バンダイ・ビジュアル社が『トップをねらえ!』を獲得したというのは正しくありません。『トップ』は元々バンダイ・ビジュアルが扱っているものであって、米国での発売も自社じきじきに行うという、それ以上のことではありません。

それからUSバンダイ・ビジュアル社(以下BV社と表記 - 訳者)とUSバンダイ・エンターテイメント社(BE社と表記 - 訳者)は別会社です。(訳注2) 今のところBV社より北米発売が予定されているANIMEはわずか三作品、そして現在わが国のお店に並んでいるのは二作品しかありません。これでは米国BV社の今後のラインナップについては情報も先例も足りないわけです。

ただ、手がかりとなるものは以上のように少ないものの、同社がいずれ『トップをねらえ2!』を発売する見込みはある、と思います。

BV社が米国国内で最初に手がけた商品は、劇場版『パトレイバー』のビデオでしたが、その次に発売したのは『パトレイバー』の劇場版第二作でした。(訳注3) BV社がこの例を踏襲して、『トップをねらえ!』('88年制作)を売り出した後に『2!』('04‐'06年)を登場させることは十分考えられます。

同社は『リーンの翼』('05年)の北米発売権を手に入れています。ということは、BV社は過去の作品だけではなく、最新のものも扱う気があるということです。『トップ2!』の完結はもう少し先のことになるので(訳注4)、BVは北米発売を公にするのを今は控えているのかもしれません。あるいは、BV社とは別のところが『トップ2!』を獲得してた可能性もあります。異なる業者より続篇が発売されることはわが国では珍しいことではありません。

わが国のANIMEファンの間で『トップ2!』への関心がないわけではないとは思うのですが、それほど盛り上がっていない理由はふたつあります。前作『トップをねらえ!』は日米両方でANIMEの古典として認められています。(ニュータイプ日本版の2006年8月号で、神山健治と水島精二のふたりがそれぞれ選んだ歴代ANIMEベスト10の中に『トップ』がありました)(訳注5) 

『トップ』第一作は米国では二度発売されているので(訳注6)、ANIMEファンにはよく知られています。ところが『トップ2!』のほうはわが国では知れ渡っているとはおよそいえない有様です。知名度は低く、これでは需要も期待できないと思います。それに、『トップ2!』は前作ほどの出来ではありません。

一作目にはとろいところもありましたが、強烈な印象を残す主人公たちに加え、感動的なフィナーレのお陰で、長く記憶に残る作品になりました。『トップ2!』は見た目は良いし、観ていて楽しめるものでしたが、前作に比べるとひ弱なのです。ストーリーもなんだか締まりがなくて、個々の登場人物たちの個性に今ひとつ迫りきれないでいます。『トップをねらえ!』はANIMEの古典だとしても、『2!』はせいぜい「良」というところです。

一作目がようやくわが国でもDVDとして発売されることや、ガイナックス作品で未だに米国に渡っていないのがこの『2!』であることを考えると、これの北米版がいずれお目見えするのはほぼ確実だと思います。

Will Gunbuster 2 Get Licensed for American Release?

訳注1 『トップ!』の北米お目見えは、実は’90年2月にまで遡る。(US Renditions社より字幕版VHS) 

訳注2 米国バンダイ・ビジュアルの正式社名は BANDAI VISUAL USA INC.。2005年1月5日に設立。詳細は日本側のプレスリリースを参照。米国バンダイ・エンターテイメントの正式名称はBANDAI ENTERTAINMENT INC.。『ガンダム』シリーズを始めとするバンダイ系作品のほとんどはここで扱っている。

訳注3 『パト』映画第一作は’95年7月、第二作は同年11月の発売。字幕版、吹き替え版のふたつが用意された。

訳注4 最終回は今年(2006年)8月13日と18日にAT-Xで先行放映の予定。

訳注5 神山健治の「監督をやるなら観ておきたい20本」 も参考になる。

訳注6 二回目のお目見えは’96年8月、Manga Entertainment社より(吹き替え版VHS)

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2006年7月26日 (水)

落語ANIMEは米国人には伝わっているのですか

質問

自分はAskJohnの大ファンです。先日の「吹き替えは悪なのですか」を読んで、日本より質問します。『落語天女おゆい』のことをご存知ですか。(訳注1) 私はそんなに好きではないのですが、落語家の有名どころが参加していて、劇中の落語もこの人たちが声を当てています。それで伺いたいのですが、米国人は落語がからむANIMEをどんな風に楽しんでいるのでしょうか。例えば、スタジオ・ジブリ制作の『平成狸合戦ぽんぽこ』(落語家が何人か声優として出演していました)とか、日本語のだじゃれや言葉のノリが分からないと理解しにくい作品がいくつかあるのですが。

回答

RAKUGOならではの感覚や台詞がANIMEではどう取り入れられているのか、という類の質問は、正直なところ私には難しい問いですので、今まで正面より答えるのは避けてきました。ANIMEについて自分は詳しいほうですが、なんでも知っているわけではないし、日本の古典文化についてはほとんど何も分かりません。

でも、今回はあえて、逃げることなく精一杯答えてみようと思います。不完全な回答であっても、日本・米国の両方の読者にとって何かためになることもあるのでしょうし。

『平成狸合戦ぽんぽこ』は何度も観た、お気に入りの一本です。『落語天女おゆい』はというと、第一話しか観たことがありません。そんなに面白い番組とは思えなくて、第二話以降は視聴を止めています。実際、この番組は最初の一話しかファンサブが作られなかったことからも(コメント欄のIP:61.12.163.152さん、自作自演ごくろうさん - 訳者)、英語圏のANIMEファン達の間では注目されなかったことがうかがえます。『落語天女おゆい』と出会うまで、私は落語というものはまったく知りませんでした。日本の古典芸能であることは耳にしていたのですが、それ以上のことは今日この時まで何も知りませんでした。

それで少し調べたのですが、落語は日本の伝統的なスタンダップ・コメディ(もっとも、RAKUGOコメディアンはスタンダップではなく座ったまま芸をします)だと分かりました。ユーモラスな物語、風刺の効いたストーリーを一人数役で演じわけるのが落語家の芸です。お笑いパターンの繰り返しと表情分け、それから洒落た台詞まわしと絶妙のタイミングで繰り出されるエグい文句が相まって、観客はその人ごとにユーモアを味わうわけです。

私もそうなのですが、英語圏の大多数のANIMEファンは、おそらく落語についてはほとんど何も知らないはずです。RAKUGOという名を聞いたことさえない人がほとんどだと思います。今回の質問に答えるにあたっていろいろ調べたのですが、『ぽんぽこ』のナレーションは落語家(古今亭志ん朝)であることを今日初めて知りました。この映画が落語を取り入れたものであることも初耳です。

この映画では日本の古典芸能が頻繁に描かれ、どれも目立つものです。でも、ほとんどの米国人ANIMEファンは『ぽんぽこ』のことを、ご陽気で感動的な環境問題テーマのファンタジーとしてのみ受け止めています。

この映画の底に流れる日本的なものが把握・理解できる人にとって、『ぽんぽこ』はもっと奥の深い映画なのでしょうが、映画自体の出来がとても良いので、米国人には劇中にさりげなく現れる日本的なるものが分からなかったり気づかなかったりしても、十分に楽しめるものになっています。

駄洒落や言葉あそびは日本ではとてもメジャーなものです。『エクセル・サーガ』の第一話でも、日本人の言葉遊び好きなところがジョークにされていました。『赤ずきんチャチャ』や『姫様ご用心』でも駄洒落芸が連発していました。

ただ残念なことに、こうした日本語の駄洒落は米国版では伝わってこないのが常です。うまく翻訳できないわけです。例えば、『忘却の旋律』には日本語の言葉遊びがたくさん出てくるのですが、ジェネオンの米国版DVDでは翻訳どころか解説すらされていませんでした。日本語について何も知らない米国人視聴者でも楽しめるような仕様になっているので、作品中に優れた言葉遊びがいっぱい出てきても、誰も気がつかないわけです。

私はたくさんの作品を吹き替えでなく字幕で観てきましたし、日本語のコースをとったこともあるので分かりますが、ANIMEでは言葉遊びも芸として好んで使われています。悲しいことに、米国版ではしばしば削られてしまいます。米国人の視聴者でもついていけるものにしなくてはいけないわけです。

外国の視聴者がジャパニーズ・アニメーションを観ても、日本の視聴者のように作中の細かなニュアンスをかぎ分けたり理解することはとてもできません。『こどものおもちゃ』や『エクセル・サーガ』のように、みな台風のようにまくし立てる作品がいくつかありますが、こういう番組は日本語をよく知らない視聴者にも十分楽しめるものです。

日本語の語呂合わせ芸や言葉遊びの台詞が翻訳に反映されたり、説明が付け加えられたりすることも結構あります。とりわけファンサブ翻訳では、駄洒落なども翻訳に反映されることが多いようです(訳注2) ファンの自主翻訳版をたくさん視聴しているANIMEファンであれば、日本語の台詞のなかに出てくる語呂合わせとかアクセント、独特の喋り等については自然と詳しくなります。しかし落語の話芸となると、ANIMEに出てくることがあってもファンのほとんどは分からないし、気がつくこともありません。

劇中人物の台詞に顔を覗かせる日本的な感覚は、米国人視聴者には聞き分けたり理解することは非情に難しいものですが、それでもANIMEは十分楽しめるものです。言われてはじめて日本的と気がつくようなものがANIMEのなかにはたくさんあります。そういうものは米国人視聴者にとっても参考になるし、興味深いものでもあります。劇中にでてくる微妙な日本的要素や特徴は、私たち米国人には気がつきにくいものですが、それでもANIMEは十分に楽しめるものです。

Do Americans Recognize Rakugo in Anime?

訳注1 北米での発売予定は、2006年7月現在ではない

訳注2 でも、ときどき間違っている(らしい)

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2006年7月21日 (金)

タカラヅカとANIMEの関係は

質問

タカラヅカについて知りたいのですが。(なんでも俳優の全員が女性というミュージカル劇で、男性役も女が務めているとか) ANIME界に与えた影響はどんなものですか。例えばタカラヅカ女優がANIMEで声を当てたことがあります。(訳注1) それから正直なところ、どうして日本人はああいうものが好きなのですか。

回答

申し訳ないのですが、私も宝塚歌劇団については詳しいわけではないので、ANIME産業への影響度についてはなんとも言えません。あくまで推測であり、100%正確には語れないことを断っておきます。

宝塚歌劇団は1913年(大正2年)に設立され、恋愛劇を演ずる際に不道徳と非難されることを避けるために乙女のみを集めました。OTOKOYAKUと呼ばれる俳優は、男性の役を演じるのですが、そこに漂う独自の匂いに引かれるのか、若い女性のあいだではカルト的人気を誇るようです。女性がヒーローを演じるということは、まさに女が力を握るということです。OTOKOYAKUは女性であるけれど雄雄しい姿をした、ロマンチックな存在でもあります。女であることを押し殺すことなく、自らの意思で行動し人を動かすたくましさを具現化したもの。それがOTOKOYAKUです。OTOKOYAKU演ずる男性像は、騎士道に殉じるロマンティックな存在として女性ファン達を惹きつけてやまないのです。

公式HP・手塚治虫ワールドの解説によると、手塚は宝塚市で育ったそうです。彼の『リボンの騎士』のMANGAやTVシリーズは、宝塚歌劇の世界に影響を受けたものだとあります。それから池田理代子の『ベルサイユのばら』も、おそらく宝塚から刺激や影響を受けた作品です。『ベルばら』が宝塚オマージュであることを知ってか、宝塚歌劇はあれの舞台を代表作にしています。(訳注2) それからモーニング娘というグループが舞台版『リボンの騎士』に出演する計画が公にされています。(訳注3)

MANGAによく登場するBISHONEN集団も、おそらく宝塚より刺激(あるいは翻案)されたものだと思います。つまるところ、上品で優雅な男性が長い髪をなびかせる姿は、まさにタカラヅカのOTOKOYAKU俳優の役割そのものなのです。

What Influence Has Takarazuka Had on Anime? (2006年7月25日、原文の訂正を受けて訳文に加筆)

訳注1 例えば『おジャ魔女どれみ』の関先生役を務めた葛城七穂(かつらぎ ななほ)は宝塚(’87-97年)出身

訳注2 1974年初演。演出は俳優の長谷川一夫だった。

訳注3 今年(2006年)8月に新宿コマ劇場で上演の予定。ちなみに監修と演出も共に宝塚出身。主人公のサファイア役は高橋愛。紺野あさ美も出演する予定だったが、2006年7月23日にモーニング娘(ちなみに正式表示は「モーニング娘」)を卒業するため、出演は中止となった。

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2006年7月20日 (木)

吹き替えは悪なのですか

質問

ANIMEの吹き替えはどれも駄目とお考えですか。それとも、それなりに良いものもあるという考えでしょうか。後者の例として思い出されるのは『十二国記』、新作でいえば『舞HiME』『エウレカ7』です。回答者さまご自身は、吹き替え、字幕の両方で観る主義ですか。

回答

映画というものは原語で観るものであると個人的には考えています。アニメーション、実写を問わず、日本語、中国語、フランス語、ロシア語を問わず、です。映画は必ず原語で観るようにしています。これはという吹き替えや、原語のものより自然かつ出来が良いと思える吹き替えに出会ったことはありません。

例を挙げると、ジョン・ウーの『ハードボイルド/新・男たちの挽歌』のロング・ヴァージョンのビデオを私は持っていますが、とても観る気にはなりません。原語は広東語のはずなのに、標準中国語に吹き替えされていたのです。ジェット・リーの『フィスト・オブ・レジェンド怒りの鉄拳』を始めて個人輸入したときもそうでした。元の台詞は広東語と日本語だったのに、これは朝鮮語に吹き替えされた版だったのです。

『吸血鬼ハンターD』の映画第二作は英語音声版と日本語音声版がそろって用意された作品でしたが、英語版より日本語版のほうが遥かに緊迫感と雰囲気があって、それにゴシック趣味がよくでていると思いました。この作品については英語版が主で、日本語版のほうが吹き替えであると考えることもできるとしても、これの作り手たちの母国語は日本語だったはずです。(訳注)

吹き替えという行為は結局は妥協策であり、作品の芸術的完成度を損なってしまうものと私自身は考えています。字幕を使えば作品はそのままなのですが、吹き替えは原語音声を取り除く行為です。本来の作品とは異なる役者さんが声を当てるとなると、その作品の監督その人が直接監修しているのでもない限り、それはもう別作品になるわけです。監督が自作の外国語音声版を監修したり監督したりすることもあるのですが、通訳を介して演出をつけたり、慣れない言語を扱うとなると、どうしても力が存分には発揮できないものです。

吹き替えではぎこちなくて不自然になる上に、商業的にはともかく芸術的完成度はどうしても損なわれてしまうというのが私の考えではあるのですが、それでも私とは考えを異にする方もいることでしょうし、吹き替えが好き問い向きを否定するつもりもありません。ANIMEは英語吹き替え版のほうが日本語オリジナル版より優秀だとする吹き替え信奉者は山のようにいます。私はというと、日本映画は日本語で楽しむのがベストだし筋が通っていると固く信じていますが、そうは思っていない人のことをあれこれ言うつもりはありません。

吹き替えの出来の良い悪いは個々の人がどういう視点を取るのか次第ですし、俳優や監督の能力や技量によって吹き替えの出来は大きく左右されるものであることは言うまでもないことです。出来の良し悪しのことではなく、影響力がどれだけあったのかという視点で吹き替えの是非を判断するとなると、人の数だけ考えも異なってきます。

吹き替えのおかげでANIMEが世界中で人気を得、受け入れられるようになったことは否定できません。しかし、吹き替えでANIMEを楽しむ場合、それは日本の本来の視聴者が観ているものと同じものを楽しんでいると果たして呼べるのでしょうか。自分たちにとって視聴しやすいよう加工された代物を楽しんでいるのです。

翻訳とはそういうものであるし、どうしてもオリジナルより欠けたりずれたりすることは避けられない、という声にはうなずきかねます。なぜなら、翻訳自体は映画そのものを改変するものではないからです。吹き替えのおかげでどんな国の映画も自国語で楽しめるようになったことは本当です。作り手側には経済的恩恵をもたらしているし、そのおかげで皆作品を作り続けられることも本当です。しかし、吹き替えが施されると、視聴者と本来の作品とのあいだに一枚新たに層が挟み込まれるわけです。

視聴者と作り手とのあいだにある溝を埋めるのが翻訳の仕事のひとつですし、そして視聴者と作品との距離をより縮めてくれるのが吹き替えである、と言うことはできます。でも、監督が創造したもの、心に思い描いたのと同じものを吹き替えでは用意しえないのです。

つまり、配給に際して吹き替えには良い面と悪い面が同居しているのです。個々の作品の吹き替えの良い悪いはそのできばえ次第で判断されるものなのでしょうが、私の場合、吹き替えでは作品に没頭どころか、むしろ距離を意識してしまいます。吹き替えは利益を最大限挙げるために強要される妥協策であり、野蛮で押し付けがましい行為であるとも思います。こういう考え方は極端なものですし、あくまで私個人のものです。考えを同じにしない人もたくさんいることはわきまえています。

全員が私と見解を一にしてくれるわけではなく、同意もしないことも分かります。それでも、偏狭さにとらわれず皆さんが論じ合うきっかけになることを今は期待しています。

Is Dubbing Good or Bad?

訳注 『吸血鬼ハンターD』の映画版がたったの2本ですか も参照。

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2006年7月18日 (火)

最近のANIMEで結婚テーマがめだつのはなぜ

質問

最近のANIMEでは結婚がしょっちゅう話題として出てくるのはどうしてですか。ハーレムANIMEでは珍しくなかったのですが、今では『神魂合体ゴーダンナ!!』や『ガン×ソード』など、主人公は自分の妻やフィアンセと組んで敵と戦っています。何か日本での家庭観が反映しているのか、国の「子どもを産もう」政策キャンペーンがからんでいるのか。

回答

ANIMEに社会的、政治的な動向の顕示をみてとることはあまり感心しません。それでもANIMEは日本で作られているものですし、日本という国の現状や時代精神が作品に滲み出るのは避けられないことです。これはこうも言い換えられます。ANIMEを作る側が視聴者相手に結婚や家庭を積極的に奨励しているわけではなくて、それでも今の日本が抱える問題がそれなりの意図とともに作品内で扱われているのではないか、と。

日本の出生率は2001年より下がり続けています。CIAのHPにあるデータによると、2006年現在の日本の出生率は平均して9.37人/1,000人にまで落ち込んでいるそうです。参考までにわが国での出生率を挙げると、14.14人/1,000人です。日本では女性は1人当たり平均して1.4人しか子どもを産まないでいます。(USAでは2.09人) 特定非営利活動法人インタープレスサービスの報告書によると、現在のペースで出生率が下がり続けた場合、日本の人口は現在の1億2,800万人が2050年には1億人にまで減ってしまうそうです。

このことは日本の経済にとって重大な問題になっています。子ども人口は減少を続けるなか、高齢者の人口は増え続けています。国はこの10年、出生率の劇的低下を上昇に転じさせるためにさまざまな手を打ってきました。厚生労働省による子育て支援政策を始め、日本は少子化という新たな社会問題に対処するためにいくつかの新たな機関を設けています。

結婚はANIMEでは長きに渡って重要なテーマでした。『めぞん一刻』は、主人公の結婚とともに物語の幕が下りています。結婚テーマのものといえば、他にも『うる星やつら』の映画第一作やOVA『Marriage ~結婚~』、TVの『ウェディングピーチ』、それに先に挙げた『ゴーダンナ』や『ガン×ソード』等があります。しかしながら、もっと踏み込んで日本の出生率低下に言及した、あるいはおちょくった番組も近年いくつかみられます。2002年放映の『りぜるまいん』では、早婚を奨励する国家機関が登場します。2004年放映の『ふぁいなる・あぷろーち』には、出生率を上げるために高校生の男の子たちに婚約者をあてがうという、そのものずばりな国家機関が描かれます。

でも、これらは政府キャンペーンの一環というよりは、出生率低下という大きな社会現象が最近のANIME番組でも意識されるようになったという以上のことではないようです。危急かつ必要不可な社会的責任のあり方として結婚や家族計画を奨励するANIMEが作られたことはないはずです。『ゴーダンナ』で結婚が取り扱われたといっても、それはああいう極端な設定を取り入れることで、少しでもありがちパターンより脱しようという以上のものではありません。『りぜるまいん』や『ふぁいなる・あぷろーち』等は出生率問題に何らかの答えをだすことには関心はなくて、むしろおちょくっているのです。

重い社会的問題について正面より扱う力がANIMEにはあるし、実際扱ってきたわけですが、結婚や人口問題について日本のANIME産業がテーマとして扱おうとしているかというと、そういう意思はないようです。出生率低下は現代日本にとって目をそらすことの許されない問題であり、そしてそれゆえにANIMEにもその影がうかがえるようになったのだと思います。

Why Is Marriage So Prominent in Recent Anime?

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